湿原の散策を終えた我々は、再び宿へ戻った。部屋で荷物の整理をしているうちに、夕食の時間となり、食堂へ向かった。
ペンションおやまのえんどうでの夕食

食堂にはこだわりの感じられる調度が設えられていた。きらびやかさと素朴さが同居した、たいへん洒落た空間だ。
実は宿を予約する時から、「このペンションは男二人で過ごすにはロマンチックすぎるかもしれない」と気になっていたのだが、ここに来てその懸念が再び頭をよぎった。そのことについて友人に聞いてみたが、ほとんど気にしていない様子だった。僕は安心した。
席につくと、ほどなくして前菜が運ばれてきた。ご主人はフランス料理の心得があるのだろうか。ひと皿ひと皿に、そんな雰囲気が漂っている。
こういった料理に合わせるならワインだろうか…。僕は料理をひと目見て、そんなことを思った。ソフトドリンクで流し込んでしまっては惜しい気がする。
だが、ここで思い出さなくてはならない。僕は酒には弱いことである。明日はいよいよ山に登る。そのことを考えれば、酒は控えておくのが妥当な判断だろう。

しかし僕は、丁寧に品よく盛り付けられた料理を前にして、酒類を頼んでみたい気持ちをどうしても捨てられなかった。そうしなければ不適切なような気さえした。
悩んだ末、僕はマルスウイスキーの水割りを頼むことにした。過去の経験から、醸造酒よりおも蒸留酒の方が翌日には残りにくいと分かっていたからだ。(あくまで比較的、だが)
結果的にこれは正解だった。ミズナラ樽由来の香りは柔らかく、女性的な味わいで、飲みやすい。前菜から肉料理、デザートまで相性が幅広いのも良かった。もしも頼んだのがワインだったら、前菜には白、肉料理には赤と合わせたくなっただろう。僕はそんなには飲めない。また、幸いにして、翌日気分が悪くなることもなかった。

姫ほたるの里
食事の後、宿のご主人から「近くでホタルが見られる」旨のアナウンスがあった。我々は散歩がてら見に行くことにした。食後の腹ごなしとしては、これ以上ない。
ホタルのいるスポットまでは歩いて向かう。ペンション周辺は、完全なる闇の中に没しており、懐中電灯の明かりはなんとも頼りない。
我々以外にもホタル探しをしている人は多くいるようで、闇の向こうからは彼らの足音と話し声が聞こえてくる。結果として森の夜には不似合いな騒がしさを呈していた。
ホタルはなかなか見つからなかった。もしかすると見物客の多さに驚いて、どこかへ逃げてしまったのかもしれない。
我々はホタルの気配すら感じ取れないまま、あちこちを彷徨った。そんな折、分かれ道を見つけた。これまで気づかなかった道だ。その先に人の気配はない。足を踏み入れるには多少の勇気を奮う必要があった。
我々の視界は、先ほどまでとは比較にならないほどの濃い闇に覆われた。見物客の立てる物音はいつの間にか遠ざかり、代わりに沢の音だけが耳に届いている。
我々はしばらくの間、じわりと湧いてくる恐怖心に耐えながら歩いた。そしてふとした瞬間、闇の中に、一点のかすかな黄色い光がふわりと中を舞うのを視界に捉えた。
その一匹を見つけると、不思議なことに二匹、三匹と次々に見つけることができた。これまで全く見つけられなかったのが嘘のようだ。
そのかすかな光は、恐怖心を取り除き、代わりに安堵を心を満たしてくれた。