朝から色々あって大変だったが、なんとか西武秩父駅までやってくることができた。
次なる予定は、秩父鉄道で運行されるSLパレオエクスプレスに乗車することだが、まだ少々時間がある。そこで、西武秩父駅から秩鉄の御花畑駅まで歩きつつ、軽い散策をすることにした。
ところで、秩父に来る前の週、予習として『空の青さを知る人よ』を視聴した。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『心が叫びたがってるんだ。』と並び、「超平和バスターズ」が手掛けた三部作の一つだ。
三作品すべてに秩父の街が舞台として登場するという共通点があるが、今回新たに気がついたのは、それぞれが「負の感情」を物語の軸にしているということだ。例えば『あの花』では親友の死から生じる後悔や未練、『空青』では田舎特有の閉塞感、それに対する反感や諦念といったものが物語を動かす原動力となっている。(『ここさけ』は残念ながら見ていない。)
かつて『あの花』を見たとき、僕は志賀直哉の『城崎にて』を思い出した。『城崎にて』は怪我をした主人公が、養生のために城崎温泉を訪れるという話だ。そこで主人公は生と死について深く思いを巡らせる。
さらには、『半分の月がのぼる空』という作品のことも脳裏をよぎった。三重県の伊勢を舞台に、不治の病に侵された少女と、少年との交流を描いたボーイ・ミーツ・ガールだ。
これらの作品で共通して死が扱われていることは、決して偶然ではないように思える。城崎は兵庫県北部の山間に位置し、大阪や神戸からも遠く、田舎と言って差し支えない場所だ。伊勢は作品中で衰退していく田舎として描かれている。これらの作品が地方を舞台にしている点に注目すると、そこには死や閉塞感といったものの匂いが漂っていて(僕はそのように感じる)、そしてそれが、物語の根源的な背景となっているのだと気がつく。
このように書くと、今読んでいただいている人は、秩父や城崎や伊勢がいかにも辛気臭い場所のように思われるかもしれない。だがそれはこれらの土地の名誉のために強く否定しておきたい。秩父はごった返すほどの観光客を呼び寄せる実力がある(前回それを痛感した)し、城崎は温泉地として全国的に名高い。伊勢は言うまでもなく伊勢神宮への参拝で賑わっている。
ただ一方で、『あの花』『空青』で感じたような「匂い」を感じてみたい、という密かな期待があることも否定できない。実はそれこそが今回僕が埼玉に足を向けた理由の一つなのかもしれない。