我々を乗せた車は、諏訪湖SAを後にし、諏訪茅野線(長野県道424号)を進んでいく。気がつけば道は山の中へと分け入っていた。いよいよ霧ヶ峰高原のエリアに差し掛かったのだ。友人は次々現れる急カーブを巧みにさばいていき、標高を積み重ねていった。
しばらくすると「ビーナスライン」に入った。茅野市街から松本市の美ヶ原高原までを結ぶ山岳ドライブルートだ。晴れていれば雄大な景色を楽しめるスポットだが、今日は霧によって閉ざされ、その本領を垣間見ることも難しい。ぱらつく雨がフロントガラスに転々と跡を残していく。
さらに車を走らせること十数分、僕達は「車山展望リフト」の山麓駅に到着した。ここからリフトに乗れば、車山の山頂へ行くことができる。だが僕としては、ここでリフトに乗るつもりはなかった。今日は早めに宿に入り、翌日に備える予定だった。そのことは事前に伝えてあったつもりだったのだが、友人は今日のうちに少しでも散策をしたいと考えているようだった。
友人は空きスペース探し出し、駐車の動作に入った。僕はその様子を横目に、「車山展望リフト」の様子をうかがった。すると、どうも様子がおかしいことに気がついた。運行されているようには見えない。駐車を終えた友人も同じことを思ったようだ。係の人に尋ねると、本日の最終はすでに終了しているとの答えが返ってきた。天候不良のため通常より早く運行を終えたらしい。
数秒の間、車内に気まずい雰囲気が流れた。友人は少し意気消沈しているようにも見えた。一方で、僕は内心ほっとしていた。長時間の移動の疲れが堪えていて、視界のない中でのハイキングを楽しめるような気分ではなかったのだ。運転してもらっていて何だが…。僕はそのまま黙っていた。
結局、どうすることもできず、僕達はそのまま宿へ向かうことにした。宿は先の場所から、車でさらに20分程度進んだ場所にある。視界は相変わらず白い霧に閉ざされたままだ。
到着後、チェックインを済ませ、部屋に荷物を置いた。ベッドに腰掛けて一休みしていると、友人が「時間があるからどこか見に行きましょう」と言ってきた。僕としてはこのまま宿でのんびりしても良いと思っていたのだが(なかなか雰囲気が良い宿だ)、その勢いに押され、付き合うことにした。
再び車に乗り込んだ僕達は、カーナビの地図上で”八島ヶ原湿原”という地名を見つけ、そこを目指すことにした。しばらく走り、現地にたどり着いた頃には、幸いにも雨は止んでいた。
湿原には散策コースが整備されていた。歩き始めてすぐ、霧の中にぼんやりと浮かび上がる黄色い花を見つけた。その色彩はわずかに赤みを帯びている。ニッコウキスゲだ。湿原を訪れる者を、まるで無言で見張るかのように佇んでいた。

しばらく進むと足元は木道に変わる。両脇からは生命力旺盛な植物たちが迫り、僕たちを包み込む。まるで緑の洞窟を潜り抜けるようだ。僕達の耳には、風が木の枝を揺らす音、遠い鳥の鳴き声、雨粒が草葉を叩く音だけがかすかに届いている。陽光は曖昧で、あたりには神秘と微かな不気味さが満ちていた。僕は出会う動植物にカメラを向け、シャッターを切りながら歩を進めた。





歩くことしばらく、僕達はちょうど湿原の反対までたどり着いた。そのとき、不意に前方、林立する木々の奥に動物の姿を捉えた。鹿の群れだ。僕は思わず息を呑み、興奮を覚えた。僕はその姿を写真に収めるべく、カメラを構え、シャッターを何度となく切った。
撮った写真を確認しようとファインダーから顔を上げ、モニターを見ようとしたとき、僕は再び息を呑んだ。鹿の数が、さっきよりも明らかに増えている。気づかぬうちに、その群れは倍以上に膨れ上がっていた。呆然と見つめる間にも、どこからか新たな鹿が続々と現れ、群れに加わっていく。
その異様な光景に、興奮は気味の悪さへ、そして次第に恐怖へと急速に変化していった。僕達はそそくさとその場を離れることにした。この森においては、鹿たちは増えすぎて植物を食害する厄介者となっているのかもしれない。当初は「幸運な出会い」と思ったが、どうやらそうではなかったようだ。
ふと我に返り、時刻を確認すると、すでに日沈時刻が迫っていた。思いがけず長時間過ごしていたようだ。曖昧な光が時間の感覚を失わせていたらしい。今は霧の乱反射でぼんやりと明るいが、日が沈み始めたら周辺は一気に暗くなり始めるだろう。言うまでもないが、街灯など1つとして存在しない。訪れるのは完全な闇だ。僕達は無意識のうちに歩調を早めていた。
