佐賀駅で食事をした後、JR長崎本線で吉野ヶ里公園駅に向かった。目的は吉野ケ里歴史公園の見学だ。
吉野ケ里丘陵地帯の夏の匂い
吉野ケ里公園駅から吉野ケ里歴史公園までは歩いて向かう。
道の両脇には水田が広々と広がり、奥には金立山(きんりゅうさん)を始めとした山々がそびえている。
8月の盆の時期で、炎天下ではあったが、昼を過ぎた太陽の光はほんの少し色褪せていた。実にのどかなである。
日本全国、田舎に行けば、田んぼの広がる景色はさほど珍しくない。
だが、吉野ケ里で目にした光景はこれまで経験してきたどの場所とも違い、なんとも言えず、「原初の」匂いが漂っていた。
吉野ケ里が弥生時代の遺跡で有名であるという事前知識に影響されていることは明らかだし、我ながら大げさのような気もするが、ともかくそう思った。
環ゴウ集落
15分ほど歩いて、吉野ヶ里歴史公園に到着した。
入場料を支払って公園内に入ると、まず目に入ってくるのは再現された弥生時代の集落だ。外周は堀で囲まれ、その内側には逆茂木が巡らされている。逆茂木とは、枝を張った木の幹を外側に向かって地面に突き立てることで、侵入者を阻む。このような形態の集落を環壕集落と呼ぶ。
環ゴウには「濠」という漢字を使う時もあり、「壕」の場合は空堀、「濠」の場合は水濠であることを表す。
弥生遺跡と神社建築の類似点①:門と鳥居
集落の入り口には門があるのだが、これが神社の鳥居に非常によく似ている。神社建築のはじまりはもっと時代を下るはずで、それがなぜ弥生時代の集落にあるのか、興味を惹かれるところだ。
門の見た目は神明鳥居に近い。神明鳥居は鳥居の中でも直線的で素朴なタイプだ。それと比べて、集落の門には鳥居で言うところの貫がなく、笠木だけが渡されている。よりシンプルな構造だ。
また、笠木の上には鳥の姿を模した飾りが取り付けられている。これは鳥に対する当時の信仰が表現されているのだそうだ。「鳥居」の語源にも通ずるのかもしれないと思った。
集落の奥には二重目の城柵で囲まれたエリアがあり、ここでもまた鳥居に似た門が出入り口を担っている。より守りが厳重なこのエリアには王の住居がある。ここにも神社との類似点が見いだせる。
神社の場合は一の鳥居、二の鳥居などをくぐった先に拝殿と本殿がある。集落では二重の城柵を越えた先に王の住居がある。
つまり、どちらの場合でも最も重要な要素は最奥部に配されているのだ。ムラの王は崇敬の対象でもあったろうから、それが後にカミのような存在に発展していったのは十分に想像できる。
弥生遺跡と神社建築の共通点②:高床式住居と社殿
弥生時代の建築物として、住居と並んで重要なのが倉庫だ。あるいは、人が住むところよりも頑強な建物が必要とされたかもしれない。
倉庫は湿気やネズミの害を防ぐための工夫として、地面から1メートルほど高い位置に床を浮かせた作りをしている。これがいわゆる高床式倉庫だ。
高床式倉庫を見て思うのは、神明造の社殿にどことなく似ているということだ。神明造は伊勢神宮系の神社で見られ、掘立柱や切妻造、平入が建築的な特徴とされる。高床式倉庫は平入ではなく妻入だったが、その他の点はよく似ている。
そのような印象から思い描いたのは、米を蓄えている場所は弥生人にとって非常に重要だったはずで、次第に神聖視されるようになり、後に神社建築の様式として用いられるようになっていった…というストーリーだ。
少し調べてみたところ、この見立てはそれほど的外れではないようで、神社本庁やウィキペディアにも記載が見られた。
コメから日本の歴史を覗く
縄文時代と弥生時代は、稲作伝来の前後で区別されると認識している(厳密な理解ではないかもしれないが)。
コメは宗教や文化、政治や経済などと深く関わりがあり、かねてよりコメを通して歴史を見てみたい、そういった観点で旅を組み立ててみたいと思っていた。私自身まだまだ見識が足りなく、思うように進まないのだが、ぼちぼち進めていきたいと思う。